天に次く(宿)玉(球体宇宙)
地に次く(宿)玉(球体たる星)
人に宿る玉(球体の思惟)




よく、人には魂と呼ばれるものが宿っていて、その魂を磨けと言うことが言われます。
しかし、その魂とは何ぞやとなった時、
心のことだとは思っている人が多いようですが、
その心と言う存在があまり理解されているとは言いがたいようです。

私達が見ている宇宙を天文学の世界では、天球という球体で表現します。
昔は地球を中心に天が動いていると天動説が説かれましたが、
星(宇宙)を見る時には、地球を中心とする仮装の球のことを天球と呼びます。
すべての星は東の地平線から垂直に昇り、西の地平線に垂直に沈みます。
そこには天は球体(玉)とする考え方が必要となります。

北極での星の動き方を表した図
(すべての星は天頂を中心として平行に反時計まわりに動く)


私達が住む宇宙は小銀河とされますが、
いろんな言い方がされていているようで、
宇宙にはそうした銀河が2000億個もあるとも言われる方もあり、
その小銀河にも2000億個の恒星があるとも言う方もあります。
いずれにしても天文学的な太陽が存在しているわけです。
そうした恒星には、私達の地球の様な惑星を従えている星もあるわけです。
そうした星の一つ一つが地に宿る(次ぐ)玉となるのです

天に宿る(次ぐ)玉は、天球のことだと解ります
地に宿る(次ぐ)玉は、太陽や木星や地球や月の様な玉だと解ります
そして、私達はそうした地の星(玉)に神の名をつけたのです
太陽は天照皇太御神
月は月夜見尊
地球は素戔嗚尊

全ての人ではありませんが、
こうした星達も意識を持った生命体であることを認識していません。
生命体であるが故に意識が存在し、
その意識に対して御神名を付けるのは別におかしくないのです。
この地球を汚し傷つければ、
生命体として浄化作用として天災等が生じて来るのです。

こうした天球とか星(地の球)は目に見えていますので存在として掴めます。
しかし、人に宿る玉は理解が出来ないのです。
人の肉体を解剖しても、どこにも魂は見つけられません。
それは、心が肉体的物質ではなく霊的物質体だからです。

俗にオーブと呼ばれるものが人の魂だと思う方達もあるようですが、
それで、人の魂と決めつけるのはどうも正確ではなさそうなのです。

オーブと呼ばれているものを参考として示しますと
【私の家の神間にて】


【私の家の一階仏間にて】



【伏見稲荷大社参集殿宿泊所内にて】


上記の写真は偶然に撮ったものではなく、
激しいラップ音が鳴る場所に向けて撮影したものです。
伏見稲荷大社参集殿の写真は、
暗闇の中でラップ音が鳴る方向を目がけて写しました。
私達の目には見えない玉が音を鳴らして飛んでいたのです。

下記の写真は神力が強いと言われる私の田舎の神社の御輿庫でのもの
昼間の撮影でも玉が発光しているのが解ります


こうしたオーブ写真に関してレンズの汚れだと言う方達があります。
下記の写真はカメラレンズ表面の汚れによるもので、
続いて撮影した写真の同じ位置に出て来ますので汚れと解ります。
特にレンズ面の表面に油性分の汚れがあれば強く出ます。
オーブ写真は、連続した撮影で同じ位置では撮れません。



次の写真は長野県戸隠山で、これもオーブと呼ばれていますが、
この写真に関しては、この玉は残留思念だとも言われています。
例え残留思念であっても思念という意識があれば生命体となるのです。
魂魄と言いまして、魂と魄はどちらも「たましい」と言われながら、
少し意味合いが違っているのです。

魂は精神の働き、魄は肉体的生命を司る活力で
人が死ねば魂は遊離して天上界にのぼるが、
魄はなおしばらく地上に残ると考えられています。
すなわち、残留思念とは魄を指すとも考えられます。
注意しなければならないのは、
右上の白い玉は飛んでいる状態だと解ることです。


それが別に残留思念でも、
思念が玉であれば、タマシイの意味は解るでしょう。

「タマシイ」とは、通常は魂の漢字を振りますが
本当は「玉思惟あるいは玉恣意」なのです

私達が生きていると実感するのは、
思惟とか恣意たる思考(意識)を持つからなのです

思惟は、心に深く考えて思うこと
恣意は、気ままな心、自分勝手な考え

自分は他の人や自然に生かされていると深く意識するのが思惟で、
我れさえ好ければ良いと自分勝手に生きる意識は恣意と云います

人が生きていると実感する「意識」は肉体的物質体ではなく、
肉体の生死には関係していないのです。
ですから思いは、思考思念として生き続けるのです。

自分の魂(意識)を飛ばす体験を積んだことがある人ならば気付くことですが
まったく別の異次元世界(霊界とか神界)に入った時、
自己の魂(意識)は、この世でなく別次元で生きられると知るのです。
また、その世界にはこの世の人では無い人達が居て会話も出来るわけです。

人は死して、あの世に旅立つと云われています。
そんなこを自分は信じないと言われるのは自由です。
別に信じない人を信じなさいと説得する必要はないのです。
信じるとか信じないは、本人の気付きから来るからです。
魂の感性が未熟な間は、否定論に走るのです

人は死ぬ時、執着を離れろと云われています。
執着とは、この世に対して念を持つことです。
過度の念を持つと、その念は思考を持つので魂と同様のものになります。
そうした念が地上世界に残ったものが「残留思念」と呼ばれていて、
オーブだから、それが魂だとは言い切れないのです。

よく、オーブだオーブだと騒がれる写真に下記の様なものがあります。
オーブの定義が曖昧なのですが、これらは魂の類ではありません。
また、残留思念でもないのです。
私達の目には、通常は映らないものが写っているだけです。
仏教では全ての物に霊性が宿ると説きます。
その意味では、これも霊的写真の中には入るのです。




では、これは間違いなく魂の写真だと云えるものがあるかと云いますと、
故、霊能者田響隆仁氏が撮影されたもので、某テレビで放映されたものです。
下部に見えているのは某聖場の涅槃像で巨大なものです。


同上の写真の拡大版です。
玉思惟(魂)の表面的構造がよく解る写真です。
ゴミやチリの類ではないことは一目瞭然なのですが。
綺麗な〇型で、星など同様の感じで人に宿る玉なのです。



下記の写真も玉思惟(魂)と呼ばれるものです。
この玉思惟が誰の魂かの判定は霊能者レベルで食い違いは出そうですが、
皆さんの予想している玉思惟(魂)より大きいとは解ります。


実は、私達の肉体に入っている玉思惟(魂)とは、
その方の玉思惟(魂)の一部分に過ぎないからです。
この様な大きな魂が肉体に入っているのではないのです。

この理論は、桶の中の水と柄杓の中の水。
あるいは、コップ一杯の水とスポイトの一滴の水の例えで説かれるものです。
人の肉体に入っている魂とは、ソフトボール程度のものと言われています。

魂を磨くとは、
この玉思惟の玉の表面が磨かれていること

悪しき思念のままに行くと
玉思惟の表面が汚れて毛物が発生します
その時
人の顔をしていても、その魂は獣なり
その人の本性が獣の姿等で見えて来ます
それを言葉で示す心の象形と言います

狐霊や蛇霊は自分達より下だとバカにする人達は
そうした魂も浄化させると
麗しい天人の姿に戻ることすら知っていないのです

六根清浄の祝詞には、私達には身中主があり
その身中主は天地の神と同根で
万物の霊と同体なりと言います。
狐霊だから蛇霊だから下級霊ではないのです

何がその玉思惟に「身変える」を起こさせるのか?
それを「この世の閻魔」
人の玉思惟に内在する「良心神」と言います
天地の神と同根の身中主でもあるのです


神の愛で自分の罪が何もかも許されるではなくて
悔い改めることによって
元の神の世界にと戻れるのです
悔い改めないと、償いの心が起きないからです

自分の魂をさんざん汚しておいて、
清らかな世界に戻れると説く人はおかしいのです

人は生きていれば、誰しもゴミを出し汚れもします
家の掃除をしていても、魂の掃除をしていますか?

自分が播いた悪の種から実った果は、
自分が刈り取るのが神界の法則なのです

魂を磨く方法、汚れの掃除法は
他の人を助ける愛の奉仕
(米教では、他を救いて世根(米)となれ)
お米のことを「よね」と言います。
この「米」に関することは
http://kamikotokai.com

生かされていることに感謝する
(人は他の存在によって、生かされているからです)
(自分一人の力では何も出来ないのです)

また、信仰によって神霊から浄めて貰うがあります
神の祭壇に牛と羊の血の捧げ
(我と牛と羊で犠牲の文字になります)
神一筋の少途川の道と言い、
本当の神の御国に行きます
(現世御利益信仰で神を信じるのではなく、
神を敬い信じて犠牲的精神の発露が魂を浄化される)

そうした他を救う世根の行為によって、
魂の汚れは祓い浄められて行くのです

一番いけない行為は、
我れさえ好ければそれで好いは自己本位の行動なのです
魂を汚しに汚してしまうのです
貴方一人で何が出来ると言うのでしょうか?


人には神とも成れる魂が授けてあるにも関わらず

明治25年に丹波の片田舎綾部で発祥した大本教の神諭に、
人には神とも成れる魂が授けてあるにも関わらずとあります。
人は神に成れるのでしょうか?

この世は魂の修行場とか天人の苗床と呼ばれます
それは、人の魂は神(天人)とも成れるからです

ただ、神にも成れるの神は創造神などの神ではありません
天では天人、地では神社等の御神霊の立場
仏教で言う人は死ねば皆仏の立場ではありません

誰もが死ねば神ではなくて、
単なる仏より次元が高い界の霊人に成れるなのです

神や霊等居ないと主張する方達は、
当然に神社や仏閣に誰も居ないと思っています

ほとんどの人は、次元と呼ばれる感覚を持たないと思います。
神社や仏閣には神や如来や菩薩や明王と呼ばれる存在が居られます。
日本では両部神道の関係から、如来・菩薩・明王も神とします。
ただ、次元世界を異にしている為に、私達の目には見えないのです。

もし、そうした神霊や如来・菩薩・明王が三次元の存在ならば、
誰の目にも見えるはずなのです
次元が異なっていることを知らないと行けない

神社や仏閣に神霊や霊が存在しないのではなくて、
次元を異にしているので霊能力がある者でないと解らないのです。

今、私達が住む地球は三次元・四次元・五次元が重なっています。
これを三四五(みよいず)の世と言います。
この345(みよいず)は日月神示から世に出たようです。
大本教神諭で言われている神は五次元霊以上の存在です。

神の定義に関して、七次元から上位の神霊を言う方達があります。
これは、宇宙創造に関わった魂を指します。
五次元界からでは見えない世界で、あまり詳細が掴めないのです。

これが五次元・六次元・七次元で構成される世になることを、
五六七(みろく)の世と言います
お釈迦様の死後、五六億七千万年後のことではありません

まだ五六七の世は到来していないのです。
それには次元上昇を必要となるからです
この次元上昇は宇宙開闢以来の出来事とされ
俗に、二度目の天の岩戸開けとも称されるのです
為に、世にアセンション(昇天)等として説かれるのです

本質的な意味は神の御国の到来で、
聖書で予告された神の御国でもあり、
神を望まない者に、
神の御国は無縁の世界となります

何故かと言いますと、玉思惟は意識の存在で有り、
神など存在しないという意識は、神の存在を消し
自らが神が存在しない世界を目指してしまうからです

自分が創造神だと思うのならば、
それは自己の意識で創造してみればいいのです
もし、世が自らの手で創造出来れば、
その方は、創造神かも知れません

私達が持っている玉思惟(魂)とは、
思考を持った意識体で有り、本来は高次元にあります
それが物質肉体(三次元)に縛られてしまいますと、
死後も四次元幽界を居としてしまいます
この世は魂の修行場、天人の苗床を忘れ
元の高次元の世界に戻れずに、輪廻転生にと向かうのです

人はあの世に行ったからと行って、
別にこの世の姿を留めているわではないのです
高次元の自分の玉思惟と繋がった時、
そこには天人や神たる自分の姿が存在して来るのです

そうした時の自分の姿を見る時
神人合一と呼ばれる段階にあるのです
自らがその姿を見ることが可能となるのです
その姿は神社の御祭神達の様な感じになるでしょう
また、西洋で説く天使の羽根ではないのですが
羽根を持った天使の様な存在を見るかも知れません

では、玉思惟は思考の玉だとして、
実際に何かをする時には手足がないのかとなりますと
思考だけでは何も出来ません
それだと単にダルマだからです

が、玉型から人型にも自在に変わります
この思惟の玉はこの世の物質体ではなくて
どちらかと言うと「気」の様な存在が凝った玉だからです

気のようなものが流れて来ると、
如来とか菩薩・明王の姿に顕現して来たりします
そうした姿を見た者が仏像などに彫って来たのです
ですから、神霊段階でその姿を見せようとすれば、
必ずしも気ではなくて、姿を拝することも可となるのです
高い神は気だから、その姿が見ないというのは、
自己の霊能力に起因しているだけなのです

下記の写真はオーブが写っていますが、そうしたオーブではなくて、
複数の有能な霊能者が、被写体の方の本守護神の写りを確認した写真です。
オーブではなくて、気の状態で素人目には何も解りませんが、
写真で有りながら映像として流れて、その中に神の姿が捉えられたものです。
御本人の修業の結果、本守護神様と会話が可となった経緯の写真です。


人には守護神と呼ばれる存在が付けられています。
しかしながら、その守護神と呼ばれる存在の多くは、
副守護神と呼ばれるもので、
肉体を持った者と一緒に修行しているのです。
そのランクは、地獄と呼ばれる世界から抜け出す手前の存在。

肉体のこの世の修業で、
その副守護神から正守護神、魂の親神たる本守護神にと進みます。
それは、どなたかを信仰したから付かれる信仰神とは別なのです。
自己の神性に関わる存在
自分の魂に関わる系譜なのです。
自分のこの世の修行しだいで、守護神は代わって行くのです。

大本教から霊主体従・体主霊従の教えが出ました。
その中で、霊主体従が正しいとなっています。
確かにその通りなのですが、ある観念が忘れられています。

人の肉体の行動と魂の行動は必ずしも一致しないことです
肉体は現地に行かずとも、その魂は神社等に参拝しているがあります。
そうしたことは大本教霊界物語に、
出口王仁三郎師の元伊勢参拝の体験として記載されながら、
魂だけでの行動も理解されていない節があります。
肉体は遊んでいても、その魂は神界の用事をしているがあるのです。

如何に霊主体従であっても、
悪しき霊の行動に肉体は従ってはいけないのです。
逆に、自分の魂が如何に悪しき霊であったとしても、
その肉体が善行を積み続ける肉体ならば
体主霊従によって、悪しき霊が肉体によって浄化されるのです。
その為に、副守護神も存在するのです。

もしも、肉体にそうした浄化浄霊作用が無ければ
魂が肉体を持つ必要そのものがないのです
肉体は霊魂の浄化器官

巷には、悪しき霊能者と呼ばれる人達が存在します。
悪しき霊に肉体が従ってしまっているのです。

この世は魂の修行場
魂の霊界での修行と、この世の修行
この世の修行の方が遙かにスピードが速い
肉体が善行の行いをして、魂は磨かれる

この世で悪が許される意味は反面教師の働きで
高次元世界では、悪は存在しえないのです

お釈迦様の教え、この世は苦界
この世の苦労、辛さが魂を磨かせる
この世で遊んでいては、魂の磨きは無いのです

私達が帰らなければならないのは、魂本来の世界で、
故郷(出身神界)に錦を飾る

単に魂を持っているだけでは、神には成れません
神とも成れる魂を授けてあるの魂は、
魂の構造論に入らないと解りません

通常、日本の古神道では一霊四魂説で説かれています
これを図式しますと


その前に大本教で出した基本宣伝歌
三千世界一度に開く梅の花
開いて散りて 実を結ぶ
の意味を知らないと行けません

上記の図は平面論です。
これを「玉」で表現しますと、五層の玉で表します。
梅の実の種の中には、さらに天神様の種があると言います。



この魂の球図を拡大しますと、中心に直霊(天神様)が存在します。
この天神様とは、菅原道真公のことではありません。
怨霊とか鬼とされた、ウシトラ金神の意味なのです。

牛虎を「鬼と云う」で魂
エンマ大王で、この世の良心神
大本教神諭、この世の閻魔大王として現れる



人は小宇宙であり、
一人一人が星だとも言われます。

この人の魂の核(直霊)は天神様の分霊で、
人は神の子・神の宮
人には神とも成れる魂が授けてあるの


人が前世を記憶しないのは神の恩寵
今、人の世に出て来ている魂には過去世たる前世が存在します。
しかし、誰も自分の前世を覚えていません。
この世で魂の修行をするに当たって、
過去世を記憶しておく必要が存在しないからです。
過去の自分ではなく、今世の自分が次の世の自分を創るからです。
大切なことは、来世に生きる自分の魂の養成
貴方が過去にどれだけ偉い地位にあった魂でも、
今生で魂を汚してしまうと、来世に響くのです。

だが、自分が過去世で犯した罪分の払いの義務は生じます。
そうしなけれぱ、悪のやり放題となるからです。
過去から持ち越したその罪分がカルマ(償い分で業)であり、
この世でカルマの償いを終えれば賞されるのです。
そうした原理を五分と五分の正負の原則。
また、目には目を、歯には歯をと言うのです。
あるいは、因果応報と言うのです。
形を変えて、カルマとして噴き出すのです。

人がこの世に甦るのは
魂の更正(甦)の為なのです
(甦るの意味すら理解しない人達ばかり)


玉思惟(魂)がこの世の修業を終えて帰らなければならい世界は、
自分の玉思惟(魂)を出した、神たる自己の本体たる魂世界


どこかの宗教団体を信仰しているから、
その教団の教祖様を神の如く信仰している
それらは、自分の魂の親神様の元に帰ることと関係しません

神界に在る自分の魂の本体
それを本守護神様と言います

人は魂には核として存在する直霊(天神様の分魂)が有り
その働きは魂に内在する良心神として、
全て天帝に結ばれています

人は神の子・神の宮


人は誰しも肉体の生を失えば、死と呼ばれます
死は魂の命の終わりではなくて、
魂の世界(霊界)に
息(自分の心)を引き取る
自分の心(玉思惟)は、あの世(別次元)に旅立つ

間違えてはいけません
命とは玉思惟(魂)に有り、永遠性を持つのです
いのち(命)とは、息(い)の霊(ち)

大本教霊界物語や日月神示に霊子(たまのこ)線の存在が説かれます。
西洋では、これをシルバー・コードと言っています。
大多数の人の魂を結んでいるのは銀色なのかも知れませんが、
金色のコードの方も存在しています。

この霊子線が切れないと、
人の肉体から魂は離脱出来ません。
逆に言うと、霊子線を切断すれば魂は肉体から離れます。

この霊子(たまのこ)線を理解していないと、
大本教基本宣伝歌。
三千世界、一度に開く梅の花が理解出来ません。
霊子線を強制切断すると、肉体は約30分程で突然死となるとされています。
医学的には、心臓発作等とか死因不明で処理されるのです。

最後の審判に、天変地異の必要は無い

地上世界に起きる天災は、
地球も生命体であるが故の浄化運動
地球が生命体の玉であることを忘れて、
人類が地球という玉を汚した結果

これからの地上世界では、
経済破綻・水害・地震・噴火・大地の水没等が起きて来ます。
しかしながら、それは新しい世に向かう苦しみでもあるのです。
魂は最後の審判で滅ぶのではないのです

魂の命は永遠で有り
その思惟(意識)に応じた世界にと向かう

最後の審判の本来の意味は
三千世界の全魂を判定して
上・中・下の三段階に固定して、
5・6・7次元の世に向かう
為に、もう魂の修業場を必要としない

判定は、各自の「良心神(この世の閻魔)」
故に、人の魂には主の分魂(直霊)が存在する

この良心神は天国では女神形をとりますので、
その装いも新たに、主の元に嫁ぐ神の花嫁



世に、間もなくアセンションが起きると説いてる方達があります。
そうした説は、この地球が自動的に五次元界に入ると説いておられます。
そうした説の大半は、マヤ暦から来ているようです。

明治二十五年、丹波の綾部で発祥した大本教は、
ウシトラ金神の名で世の大立替を宣伝しました。
この明治25年とは、西暦1892年で、
いち早くに(1892)で、説いたのです
立替の宣伝に関わる猶予期間は120年間
西暦2012年で、宣伝期間は終了します

西暦2012年からは、何時立替が起きても不思議で無い

三次元界から五次元界に進むなど奇想天外話
奇想天外とは、普通の人には思いつかないこと

大本教神諭
神も人民も知ったことではない
世に神霊と呼ばれる存在ですら知ることはない話
創造神と呼ばれる神が謀ること

この奇想天外は、次元の話が必要となります
現在の世は、三次元四次元五次元が重なっています
これを日月神示は345(みよいづ)と書きました
345から、567へ、誰も意味が解らない

そこに出て来るのはもう一つの地球という奇想天外話
しかし、このもう一つの高次元地球話は、
私一人の奇想天外話ではなく、
世界中でそれを知って言っている人達もあるのです。
下記の図は雑誌ムーに記載されたものです。
この図が絶体に正しいかどうかは解りませんが、
新生地球に触れているのは、かなり高度の内容です。
詳しいことは雑誌ムーをお買いください。
消滅する魂とは、本人が魂を腐らせており
今日まででも、そうした魂は破砕されて輪廻から外れているのです

雑誌ムーより転載記事

この図で書かれている新生地球は新生ではなくて、
創造神が立替時用に用意されていたものなのです
それは国常立尊の袖の下に隠されしもの
神も人民も知ったことではなかったのです

この新生地球において、
五次元六次元七次元の世に入ります
それが日月神示の345(みよいづ)から
567(みろく)への移行なのです

今の地球とまったく同型船で、
移行したとしても、違和感がなくて気付かないほどなのです

私は子供の頃、姿無き神の声で
この地球とまったく同じ型の船に人類を移す
今の世から、新しい永遠の世となる
その世は、嬉し嬉しの世で在ると告げられたのです

ただ、皆さんの意識が三次元世界に囚われていると、
高次元世界への移行が難しくなります
五次元界に進むのに
三次元界の荷物(意識)は捨てなければならないのです

科学は進んで来ましたが万能ではありません
天文学の分野では、ダークマター・ダークエネルギーの存在から、
今では異次元世界の存在が言われ始めました。
人類は異次元世界を知らないだけなのです。

、宇宙全体の物質エネルギーのうち、
74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質で、
人類が見知ることが出来る物質の大半を占めていると思われる。
水素やヘリウムは4%ぐらいしかないことが分かってきている。
(ウィキペディアより出典)

仮にそのダークマター・ダークエネルギーが解明されても、
また謎が深まって来るでしょう。
全ては「闇」の世界に隠されているのであって、
神など存在しないと否定は出来ないのです

平成23年10月21日版